友だちから「厚みのあるクズだね!(ニコッ)」と言われて強く生きていこうと思った小林です。
自慢できることではないが、ぼくは人から嫌われたこと、理不尽な目にあったことの数は相当多いと思う。これはあくまで人から見聞きしたことの相対値でしかないが、ドロドロとした経験の数はとても多い。
でも現実として今も生きて、楽しく仕事をしていられるのは「生きるための考え方」を変えたからだ。
いつも秒速で怒られた部活時代
ぼくは学生時代の部活でバスケットボールをしていた。
自分で言うのもナンだが、大阪の地区でまずまずの成績を収めるぐらいには強かったのだが、そのチームの中でいつも自分だけが強烈に怒られた。ちなみにぼくはスターティングメンバーで副キャプテンという立場にあったが、他のメンバーが監督に褒められていく一方で、ぼくには強烈な叱咤が投げつけられた。
象徴的なこんなエピソードがある。
それまで練習を休んだことは皆無だったが、当時足首の靭帯が伸びていたぼくは「さすがに今日はムリだ…」と思うほど痛みが最高潮にあり、突き指をしたチームメイトと一緒に監督に練習の見学を申し出た。まずはチームメイトが「先生、突き指が痛いので今日は見学してもいいでしょうか?」すると「オッケ! テーピングしてちゃんと休めよ(笑)」という返答だった。
これは意外とすんなりイケるかもしれない…と考えて「先生、足首の靭帯が伸びて痛むので今日は見学してもいいでしょうか?」すると「そっか、テーピングしてやれ!(怒)」という返答があって顔が真っ青になった。1980年生まれの世代では、現代とは違ってまだまだ「怪我は使って治せ!」という非科学的なところがあり、仮に「練習しろ!」と言われてもやるぐらいの心づもりはあった。
しかしぼくが真っ青になったのはチームメイトとの扱いの差(格差)であり、その時のことは今でも鮮明に覚えている。さすがにこれは「指導」の域を超えて嫌われている、もしくはイジメられているのだと感じた。
ちなみに卒業後の今でも監督とは付き合いが続いており、「あの年代は皆メンタルが弱かったから、お前を怒ることで引き締めるしかなかったんだよ、ガハハハハ」という話を毎度聞かされる。当時のことは心から感謝しているのだが、監督に対する恐怖心はいまだに残っており、70歳を過ぎた男性を今でも恐れている。
「俺はお前が大嫌いだけど、質問ある?」と言われた会社員時代
ぼくは会社員時代にもことあるごとに人から嫌われ、人と上手に付き合うことができなかった。
もちろん性格に難があり、クズであることは自覚しているのだが、しかしそれ以上になぜか理不尽な目にあうことも多かったのだ。
例えばこんなエピソードがある。
ある会社で働いていたとき、自分も含めた若手四人組でとても仲良くしていた。会社の中ではほとんど「四個イチ」のような存在であり、飲み会の時なども中心になって盛り上げたし、会社のコミュニティの中でも非常にうまくやっていた。
しかしある時から様子がおかしくなる。
仕事の依頼やミューティングで自分だけが省かれるようになったのだ。読者の皆さんもお分かり頂けるかもしれないが、会社のコミュニティの中で「仲が良すぎるメンバー」がいることには善し悪しがある。そのメンバーの仲が良すぎることで馴れ合いが生まれ、全体のコミュニティにも悪影響を及ぼすことがあるのだ。そういった理由でメンバーがぼくを遠ざけつつあるのかな?と思いきや、どうやら上司が意図的にそう仕向けたようだ。
それでもコミュニティへの悪影響を考えて自己納得し、仕事に励んだ。
しかし上司からの風当たりが急速に強くなる。直接的に関係ない仕事に対しても、ぼくに対して強烈な叱咤が飛んでくる。「叱咤」と表現するとまだかわいいが、実際のところはイジメに近い罵倒だった。そしてある時、上司から別部屋に呼び出されて恐る恐る一人で向かってみると、開口一番こう言われた。
「俺はお前が大嫌いだけど、質問ある?」
そう、単純に上司から嫌われていたのが理由でコミュニティから引き離され、そして仲が良かったメンバーたちも上司からの強制には対抗できなかったのだ。10年ほど前の話だが、現代風に言えば「2ちゃんねるかよ!」とツッコめてまだ気が楽だったかもしれない。
褒められにくく、嫌われやすい3つのタイプ
「褒められたい!」「認められたい!」という欲求が下品で、「見返りを求めてはいけない」とかのたまう意識の高い層もいるようだが、仕事でも人間関係でも人から認められたい考えるのは自然だ。それは見返りを求めるのとは別で、一生懸命やったことで「ありがとう」「嬉しかったよ」「すごかったね」「よくやったね」と言われれば誰だって嬉しいだろう。
ただぼく自身がそうであるように、世の中には人から褒められにくい、もっと言えば怒られやすく嫌われやすいタイプも存在し、そのタイプを3つに分類してみる。
1.可愛げのない人
人間社会を生き抜く上で可愛げは重要だ。
多少仕事がデキなくても可愛げさえあれば「まぁコイツはしょうがないな…」で終了の場合は多いが、逆に可愛げのない人間は1つのミスも許されず、些細なほころびに対して厳しい視線が注がれる。ただ、これには善し悪しもあり、自分の可愛げに気づき、その有利さに味をしめてキャラばかり磨いた人間の末路は寂しいものだ。
歳を重ねていくと可愛げだけを売りにしている人はバカだとしか思われないからだ。
2.色々と難がある人
仕事がデキない、気が利かない、性格が悪い、社交性が低い、空気を読めない、ズレてる…
「言うまでもなく」と書こうとする前に全て言ってしまったw だいたいこんな感じだ。
3.飄々としてる人
あまり感情を露わにしない人のことだ。
飄々としている人はどこか自信に溢れているように見えて、隙がないように見える。だからこそ相手はどこをイジっていいのかが分からず、結果的に集団から外れた場所にいることになる。話してみると会話が抜群におもしろいとか、よっぽど仕事がデキる人を除き、「隙がない」というのは致命的だ。
これは自慢ではないが、ぼくは上記の3要素すべてを持ち合わせている。
非常に残念なことだ。
「はぐれ者」でコミュニティを作ればみんな仲良し
では、そんな人たちには生きる道はないのか? 人に好かれやすく、キラキラした人にならなくちゃいけないのか? ちょっと待って欲しい。
ぼくは学生時代も会社員時代も、残念ながら良い人間関係を築くことができなかった。
これはひとえに自分の性格の難と相手への理解不足に起因するところだが、今こうして独立し、良質なビジネスパートナーたちと仕事ができているのは、嫌われ者(はぐれ者)という共通項を持った人たちのコミュニティに属しているからだ。(仕事仲間たちにこの記事を読まれたくないのだが。。)
そもそも独立する人なんて、よっぽどの大義を持った人か、会社組織というコミュニティに馴染めなかった人なのだ。そしてそんな人たちと取引をしてくれる会社員の人たちもまた、会社組織の中では浮いている人たちで、まさに類は友を呼ぶコミュニティができあがる。
今いるコミュニティに馴染めなくても全く心配はいらない。
それは「今の環境に限っての話」であり、環境を変えた瞬間に人気者になる可能性だってあるのだ。だからこそ人間関係で悩む人は、その場所で挽回しようとして消耗するよりも、すぐに環境を変えて再スタートするほうが人生を豊かに生きられる。
人から阻害された、イジメられた、理不尽な目にあいやすい、そんな嫌われ者のシグナルはとても強烈で、いまのコミュニティから一歩外に出てみれば、その香りに吸い寄せられるようにして人が集まってくる。これは間違ってもオカルトのような話ではなく、人間関係というのはそういう風にできているのだ。
いつも集団の中心にいたキラキラした人は、そういう人たちで集まる。
いつも集団の端っこでアニメの話をしていた人は、そういう人たちで集まる。
嫌われやすく、イジメられた経験がある人は、そういう人たちで集まる。
それでいいじゃないか。
キラキラした人間にランクアップしようと無理に努力なんかせずに、自分のシグナルに共鳴する人を集めればいいのだ。自分の特性を無視して誰かを模倣しようとすると、過去のぼくのように精神を消耗して鬱病になるだけだ。
自分に共鳴する人を集め、自分に合った「場」を作ればそれでいいのだ。
ミラクリから一言
誰かにならなくても、生きる道は必ずある。