ぼくは「変人に憧れる凡人」と「個性的になりたがる人」が苦手だ。いや、正直に言うと嫌いレベルだ。
やたらと自分を「盛る」というか、個性的にスゴく見せたがる人が最近増えてる気がする。しかしプロフィールにいくら演出を加えたとしても、残念ながらタイムラインに並んでいる言葉と、表現を見ればその人が本当に個性的なのか、極めて普通なのかは分かってしまう。
自分を大きく見せようとすればするほど個性を失うから、「盛る」必要なんか必要ないのだ。
「あなた変わってるね!」と言われるのはコンプレックスだよ。
ぼくは自分のことを心底フツーだと思っている。
しかし過去には学校で行われた「変人コンテスト」に選抜されて、自分がいかに変わってるかを対決するという拷問のような経験もしたし、会社の中でも「ウチで一番変わってる奴」みたいに紹介されることも多かった。しかし、このエピソードを嬉々として人に語ることはないし、むしろコンプレックスだし、恥ずかしいと思っている。
(ブログに書いてるやんけ!というツッコミは無しにして欲しい。)
その特性が自分でも気づかない部分に作用していることはあるかもしれないが、自分では分からない。
ぼく自身は心底そう思っている。
しかし他人と話をしていると「自分変人なんで…w」「人に変わってるとよく言われるんですよねー(笑)」みたいに嬉々として語られることがよくあるのだ。もちろんどう思おうが、何を話そうかと自由なのだが、おかしく感じるのはそのように話をしてくる人が、極めてフツーなことだ。
要するに違和感を覚えさせるような部分が何一つ無く、際立った部分も無いということだ。
分かりやすい個性に憧れるほど、無個性になる。
ぼくは個性的な人に憧れることで逆に無個性になっていく人、そんな「個性的になりたがる人」も嫌いだ。
SNSを見ていると面白い。
「パソコン一台で自由に仕事をしています!」「自分らしい人生を模索しています!」「年収一億で自由を手にしています!」プロフィール欄にこんな文言をよく見ないだろうか? 少し前まではこれが個性的だったのかもしれないが、いまや量産されすぎて逆に無個性になっている。
リアル社会での営業マンもそう。
細身のスーツ、パリっとしたシャツ、先が尖った革靴、おしゃれメガネ、ツーブロックヘア、こんな感じの人をよく見ないだろうか? ぼくはこのタイプの方が現れたら、顔を覚えることができない。個性的なようで逆に無個性になっていることを早めに気づいた方がいい。今やモサッとした感じの方が、逆に印象に残るのだ。
そんな人は会話の内容さえも似てくる。
「人の名言の引用」だったり「時事ネタ」「ITスタートアップネタ」「成功者ネタ」そんなことばかりだ。それならむしろモサッとした人が自分のことを語ってくれた方が、ぼくはよっぽど楽しいし嬉しい。逆に自分の体験が伴わないよなネタは中身が無いし薄い。そんな話はネット上のニュースやSNSを通して収集しているからもう十分なのだ。
このエピソードからも分かるように、人間は本来みんな個性的なのだ。
そして「みんなが目指す個性の方向性」みたいなものに従わない人は、どんどん個性的になるだろう。
スティーブ・ジョブズが上司だったら絶対に嫌だろ。
日本でも何かと神格化されやすいスティーブ・ジョブズに憧れる人も多いだろう。
ぼく自身も彼に関する本を何冊も読み、その文脈を汲み取ろうとしてきた一人だ。しかしスティーブ・ジョブズになりたがって「世界を変える!」とか言い放つ人のことはどうも理解ができない。
少し前に「あなたはつまらない人だね。俺は一度の人生、スティーブ・ジョブズのような人と仕事をしたい!」と言われたことがあるのだが、ぼくは心のなかで「そんなスタンスなら、ジョブズは真っ先にお前をクビにするぞ!」と思ってしまった。そんな文脈も理解していない人が、スティーブ・ジョブズに憧れるのはファッションでしか無い。
ジョブズに憧れて、彼のような強烈なビジョンと個性を持とうとすること、それ自体はいい。
でも考えて欲しい、アレが上司だったら絶対嫌だろ。会社に行くのは間違いなく憂鬱になるし、辞めたくもなるだろう。もしかしたらだからこそ「自由に社員を使う側」のジョブズになりたい、ということなのかもしれないが、彼に憧れている人たちを観察すると、どうもあの個性に憧れているようだ。
「彼のこの考え方を尊敬している」は理解できるが、「彼になりたい」は全く理解ができない。
本当に「変わってる(変人)」なんて嬉々として語れるもんじゃない。
人に嫌われ、阻害もされる、それでも生きていく、本当にそんな人になりたいのか?
ミラクリから一言
そのままが一番個性的だったり。