「自分探し」という言葉が流行しています。「自分らしく」あるために「本来の自分を探す」というもので、自分はそこに存在するのに「別の自分を探す」という行為にぼくは疑問を感じてきました。
中田英寿さんが2006年にサッカーで現役を引退する際、「人生とは旅であり、旅とは人生である。」というエントリーで「自分を探す」ということを書き綴りました。でもそれは大スターとして「スターの自分」を演じるあまり「本来の自分の感情を見失ってしまった」という意味で書かれたものです。
それがいつしか一般的な言葉としても使われるようになり、どんどんニュアンスが変わっていったものだと思われます。そんな「自分探し」という不思議な言葉を、クリエイター視点でうまく解説している話がありましたので、前後編に分けてまとめていきます。
番組名:オトナの!
前編【オトナの!】 - YouTube.
中編【オトナの!】 - YouTube.
後編【オトナの!】 - YouTube.
放送局:TBSテレビ
放映時間:毎週水曜日 深夜1:45~
司会:ユースケ・サンタマリア、いとうせいこう
ゲスト:写真家:蜷川実花、映画監督:紀里谷和明
「自分探し」という行為が不思議
紀里谷和明(以下、紀里谷):ぼくたちがよく二人で話すのは「思考停止」ということなんですよね。思考停止がいろんなところで、すごい起こっているのに、そうは思ってない人が大多数なんですよね。
例えば女の子で言えば「女らしさ」「自分探し」とかですね。
旅に出ても見つからないのが自分
蜷川実花(以下、蜷川):そもそも「自分を探しにいく」という行為自体が不思議なんですよね。自分を探すって「探しに行って見つかるもんじゃないのが自分」だったりするじゃないですか。
私も「自分らしさ」なんて無いもん。
人と違わなければいけない?
蜷川:なのに、ありとあらゆる人が何か発信しなきゃいけなかったりとか、個性を持ってなきゃいけなかったりとか。「ブログ」なんかやらなくたって全然良いのに、「全ての人が表現者じゃなきゃいけないような風潮」がすごい気持ち悪いなぁと。
しかもそれに対して焦ってるような子たちが沢山いて、「全然焦んなくていいよ。全員が発信者なんて超大変じゃん」と。「全員がやらなきゃいけない」と思ってる環境になってることがしんどい。それが楽しければ良いですよ。
「人と違わなきゃいけない」というのが「なんで違わなきゃいけないの?いいじゃん、一緒だって。」という方向がなくなってきてるのが気持ち悪い。
今の自分で何も問題がない
ユースケ・サンタマリア(以下、ユースケ):お二人(紀里谷、蜷川)のような「自分探ししなきゃ駄目だよ。若い内は世界に出て行け」みたいなことをやってきたであろうお二人が、そういうことを言ってることに見ている人たちはびっくりしてるかもしれない。
紀里谷:やりましたよ。散々やりましたよ。
やったんだけど結局気づいたのは「俺なんの問題も無かったんじゃん」ってことなんですよね。
ユースケ:どういうキッカケで気づいたの?
紀里谷:俺も色んなことをやったり、色んな人に話を聞いたりしましたけど、結局「自分は何かが足りない」と思ってたんですけど、「果たしてそうなのか??」ってことなんですよ。
ある人に「じゃあお前、子供の頃の自分がそこにいるとして語りかけてみろ。何が欠けてるんだ??」と言われた時にビックリしちゃったんですよ。「欠けてねぇじゃん」と。
コンプレックスを克服するために何かするのは不健康
紀里谷:それなのにガキの頃にそう思っちゃったんですよ。
それはやっぱり社会であり、親がそう言うわけですよ。「一番じゃなきゃダメだ」「一番の金持ちになれ」という教育だったんだけど、子供のろは親が「神」だから信じますよね。
向上心があって何かを目指すことが悪いことじゃないですよ。
やりたいことがあれば必死になってやるべきだけど、強迫観念にかられてコンプレックスを克服するためだけに何かをしようとするのが健康的じゃないなと。自分がすごいそうだったから、それはもう止めようと思ったわけです。
ユースケ:どれぐらいの時期にそんなことを思い始めたの?
紀里谷:遅かったですよ。30代の後半ぐらいじゃないですかね。
それこそ「本来の自分で良いじゃない」「自分探しをしないことが自分探し」みたいな。
今回のミラクリ:未来へのヒント
・「自分探し」をしても見つからないのが自分、今の自分で全然問題ない
・「皆と同じであること」が自分の決断であれば、それで全然良い
・向上を目指すことは大事。でもコンプレックスを克服するために何かをするのは不健康
ぼくも散々「自分探し」をした時期がありましたが、今ここにいる自分以外はどこにも存在しないですね。