「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が大事
そんな記事が時折ネット上で話題になる。ちきりんさんの記事、けんすう(古川健介)さんの記事、などがその代表例だ。
内容については至極正論だ。その人の地位、実績、識者であるかに関わらず、真っ当な意見も存在するわけで、情報の受け手としてはその「人」に依存するのではなく「意見」を見るべきだ、本当に正論である。そしてぼく自身もそのような考え方を大切にしてきた。
しかし仕事が忙しくなるにつれ、人付き合いが広がり、その中で自分がしてきたことを振り返るとその真逆をいってる。つまり「誰が言ったか」しか気にしていないということだ。
「何を言ったか」を重視しない理由
ぼくは正直言って人脈はそれほど手広くない。(自分:他人比)
むしろ自分にとって大事だと思える人を見極めて、その人たちを大事にすることに全力を尽くしているのだ。信頼している人の言葉は当然ながら信頼する。お会いしたときに「今日UFO見たよ!」と言われれば、絶対に「マジっすか!?」から入る。バカみたいに思えるかもしれないが、ぼくはお付き合いする人をそれぐらい信頼するのだ。
ぼくの人付き合いにおいて大事にしているのは、「何を言ったか」よりも「誰が言ったか」だけなのだ。
「何を言ったか」を大事にするのは、もっと手前の段階だろう。付き合いが浅い時点で、その人を見極めるには発言の内容や行動をよく見る必要があり、そのフェーズを越えたらその「人」だけを信頼する。だからこそ冒頭で紹介した2つの記事に書かれていることは、情報収集の際に重視すればいいだろう。
「この人が言ったことで失敗したら、しょうがない」という信用
「何を言ったか」を重視しない理由は簡単で、それは既に発言そのものを信頼する準備は整っているからだ。
言い方は悪いかもしれないが、相手のことを教祖のように信頼しているからこそ、全ての発言を受け入れて盲信する。その裏には「この人が言ったことで失敗したら、しょうがない」という、ポジティブなあきらめが存在する。
そう思わないだろうか?
自分が信頼している人の発言を盲信し、それに取り組んだ結果として失敗したとしても、あきらめがつくのではないだろうか? でもその失敗も含めて仲間内で爆笑できればそれでいいのだ。
意識の高い人たちからは批判されるかもしれない。
「いや、発言そのものを吟味するべきだ!」確かにそうかもしれない。でもどうだろう、そう言う人たちも実際のところは有名人のコメントばかりピックアップし、識者・著名人のブログばかり見てるのではないだろうか? そして会社では下っ端の建設的な意見を踏み潰し、上層部の意見に「そうっすね!」とは言ってないだろうか。これを本当に実践していくのは「合理性」「生産性」との戦いなのである。
信頼があれば、正しいか、間違ってるかは問題じゃない
犯罪レベルのこと、保証人になる、借金を肩代わりするなどには節度が必要だが、基本的に信頼する身近な人の言葉は盲信する。
それが「お前、初対面のインパクトをつけるためにモヒカンにしてこい!」のようなバカなことであっても、とにかくやってみる。(実際やった。)「どれだけ苦しい状況でも、まずはお金を人のために遣え! そしたら必ず仕事で返ってくる!」と言われれば、お金に不安がある時期でもビジネスパートナーたちと豪快に夜遊びをする。(実際やってる。)
正しいか、間違ってるかは問題じゃない。
もしかするとぼくのそんな状況を見て「お前、利用されてるんじゃね?」と言う人もいるかもしれない。ただ自分が信頼する人に利用されて何か悪いことでもあるのだろうか? もし相手の打算によって本当に利用されていたとしても、「見る目がなかった」「爆笑できたから、まぁいっか」その程度である。
意識高く「「誰が言ったか」ではなく、「何を言ったか」が大事」と言うのも立派だと思う。
でも本当に大事にするべきは、信頼する身近な人の「誰が言ったか」であり、「何を言ったか」なんて本当はどうでもいいんじゃないだろうか。そして盲信できるレベルの相手を見つけた人はとても幸福だ。
ぼくはこれからも身近な人の言葉を盲信するのだ。
参考:「頭の良い、行動力のあるリーダー」ではなく、「楽しいバカ」に人はついていく。.
ミラクリから一言
すみません! でも事実だからしょうがないね。