小林敏徳のコラム

人のことを叩き潰す社会に魅力はあるのか?

「人のことを叩く」

そのハードルがずいぶんと下がったように感じる。

奇抜なことを言えば、炎上。

モラルに反したことをすれば、社会的抹殺。

そして、一概に善悪を判断できないことに対しても、厳しい指摘が向けられる。

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インターネットという武器を得たことで、「ペンは剣よりも強し」がより一層リアルになった。

ペンから生まれた言説が、マスメディアという媒体を通じて世の中に拡散し、特定の人を再起不能になるまで追い込むことも増えている。

でも、どうだろうか?

人の過ちを嬉々として叩く、あるいは叩き続けることは、共同体として生きていくことが求められる人間の行動としては、ちょっと奇妙ではないだろうか?

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程度の差こそあれ、ぼくたちは少なからず罪人である。

人知れず罪を犯すか、目立ったところで罪を犯すか、その違いがあるだけだ。

それなのに、「叩いてOK」と認定された人には鋭い刃が向けられ、反論の余地さえ与えられない。

ソーシャルメディアで拡散され、テレビで取り上げられる頃には、もう有罪が確定しているのだから。

反論しようものなら、「言い訳するなんて見苦しい」という空気になり、今度は人間性を真っ向から否定される。

自分のことは横に置いておき、日頃のうっぷんを晴らすかのように口汚く罵り、昔に同じようなことをした人までもがしたり顔でそれに参戦する。

そのことが不思議でならない。

過ちを犯した人に同情する部分はないのだろうか?

少しでも共感するところはないのだろうか?

自分は絶対に同じ間違いを犯さないと言い切れるのだろうか?

じゃあ人の過ちを叩いたり、間違いを正そうとしてはいけないのかというと、そうではない。

何でもスルーするのを「大人な態度」とするならば、世の中はたちまち腕力のある人、声の大きい人、人のことなんて全く気にしない人に支配されるだろう。

では、どんな態度が望ましいのか?

それは、まず「自分を顧みる」ということではないか。

そうすれば、見知らぬ人にいきなり石を投げつける前に冷静になれるだろうし、投げつけた石がいつか自分に返ってくることにも気づけるだろう。

ありったけの言葉で人を糾弾することもなくなるだろうし、その問題にいつまでも執着することもなくなるだろう。

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その積み重ねから生まれるのは、「諭す」という態度である。

意味を調べると、「物事の道理をよくわかるように話し聞かせること」とある。(本当は『目下の者に』ともあるが、ややこしくなるので割愛。)

わるいことをした子供に対して、イチから善悪について説明するときのそれである。

過ちを犯した人の言い分を聞き、その上で自分の意見も述べる。

そうやって「ちょうど真ん中」を見出していく作業だ。

あまりにも労力のかかることだから避けてしまいがちだが、人を叩くのがあまりにも簡単になった今、「推定無罪」という考え方が消滅しつつある今、求められるのはそういう態度だと思う。

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そうそう、こないだテレビをつけたら、過去に女性問題で週刊誌をにぎわせた方が、ある人の不倫を力いっぱい断罪していて、思わず「どの口が言うとんねん」とつぶやいてしまった。

まだまだである。

トシノリ
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