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退屈な「自分語り」が「他人語り」になる未来

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ある観光スポットのことが知りたくて、Instagramでスポット検索をしてみた。

すると、なぜかセルフィー(自撮り)がたくさん表示された。

それも生半可なセルフィーではなく、観光スポットなんか微塵も写っていないレベルのもの。

主役はあくまでも彼、彼女、またはカップルだ。

最初は意味がわからなかった。

なぜスポット検索をしたのに、セルフィーがたくさん表示されるのか。

SNSに写真をアップするときにスポットを登録するのだから、その場所の様子がわかるように写真を撮るのが当たり前じゃないか。

ただ、そんな考え方が時代遅れであることはすぐに分かった。

試しに別のスポットでも検索してみると、そこにもたくさんのセルフィーがあった。

写真の割合としては、「風景7:3セルフィー」くらいだろうか。

おそらくお洒落な人たちがこぞって訪れるようなスポットにおいては、セルフィーの割合がもっと多くなるだろう。

その場所に行ったことを記録するのではなく、「その場所に行った自分」をシェアする人がたくさんいる。

つまり「公に自分語りをする人」がそれなりにいる、ということだ。

自分語りは悪いことではない。

自分が考えていることを発信し、それに対する意見を聞いたり、ときには悦に浸るのもいい。

ただ、自分語りを聞かされるほうの立場になると、よほど関係の深い人を除き、有名人からそれを聞かされる場合も除き、「退屈だ」と考えるのが自然だろう。

Facebookに長文を投稿する人のことを、「ポエマー」と揶揄する向きもある。

そして、このブログという媒介も究極の自分語りツールだ。

好きなものを好きだと言い、人には関係のない過去のコンプレックスをわざわざ公開して、共感を得ようとする。

本来は自分勝手な行為なのに、シェアされたいとか、多くの人に読んで欲しいとか、そのようなあさましい考えが湧くこともあって、ときに自分が恥ずかしくなる。

自分が救われるためだけに文章を書くのであれば、オフラインの日記でも充分なはず。

そうしないのは、誰かに認めてほしいからだ。

では、自分語りをする人は今後も増えていくのだろうか。

そうは思えない。

SNSというものが本格的に普及しはじめてから、まだ10年足らず。(正確には知らないが。)

今はまだ人類が「いいね!」という甘美な世界に慣れきっていないように思う。

ただ、その快楽ももうすぐ落ち着くだろう。

そうなったときに、おそらく自分語りの割合が減り、少しずつ他人語りに移行していく。

そして他人語りをしているように見せかけて、実は自分の内面を投影しているという、高度なテクニックを使う人も現れるだろう。

すると自己と他者の境界線がなくなり、そこに共感が生まれ、人と人のつながりはより強くなるはずだ。

余談だが、場末の飲み屋で初対面の人から聞かされる自分語りだけは、いつまでも無くなりそうにない。

 - 小林敏徳のコラム

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